| グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ(Gnaeus Cornelius Scipio Asina, 紀元前3世紀、生没年不詳)は、第一次ポエニ戦争期の共和政ローマの政治家・軍人。「アシナ」とはラテン語でロバを意味する。 ローマ筆頭の名門のひとつコルネリウス氏族のスキピオ家に生まれる。父はルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス、兄弟にはルキウス・コルネリウス・スキピオがいる。 261年にコンスルに当選、新設のローマ海軍を率いる。そしてメッシーナ海峡を巡回している際にリパラがローマ側に寝返るとの情報を得る。戦略上重要な拠点を占拠して勝利を栄誉を得ようと焦り、リパラに急行するが、これは敵将ギスコの謀略で、港に乗り上げた際に海上を封鎖されてしまう。海戦に不馴れなローマ兵はパニックに陥り、自分達が乗っている船に構わず陸地に逃れてしまい、大した戦闘もなく易々とスキピオ・アシナは捕虜となってしまった。そして彼はローマ史上最初に海戦にて敗北した人物となった。 この失敗により、後年スキピオは政敵に「株 」という意味の「アシナ」という呼び名で呼ばれるようになった。しかし254年に再びコンスルにアウルス・アティリウス・カラティヌスとともに当選している。 グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス(Gnaeus Cornelius Scipio Calvus, 紀元前211年没)は、第二次ポエニ戦争初期の共和政ローマの軍司令官、政治家。 父はルキウス・コルネリウス・スキピオ、息子はプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、甥はスキピオ・アフリカヌス。 第二次ポエニ戦争の際、弟のプブリウス・コルネリウス・スキピオとともにヒスパニアのカルタゴ領を攻略、カッシアでカルタゴの将軍ハンノを敗る。しかし紀元前211年、ハスドルバル(ハンニバルの弟)と別のカルタゴ武将ハスドルバル・ギスコ配下のイベリア人の部隊に敗れ、戦死した。 プブリウス・コルネリウス・スキピオ(Publius Cornelius Scipio, 紀元前211年没)は、共和政ローマの軍人。コンスル職も務めた。第二次ポエニ戦争初期に登場する。 父はルキウス・コルネリウス・スキピオ、息子にはのちに第二次ポエニ戦争後期で活躍するスキピオ・アフリカヌス、スキピオ・アシアティクスがいる。 紀元前218年にコンスルに当選、第二次ポエニ戦争ではピサおよびマルセイユより海路でもハンニバルのイタリア侵入を警戒していたが、ハンニバルがアルプス山脈を越えてイタリアに侵入、スキピオは急遽ヒスパニアに展開していた軍をイタリア北のアルプス・チザルピナ地方に召集、兄のスキピオ・カルウスとともに防戦体勢に入る。その帰路のポー川付近でハンニバルの部隊と遭遇、スキピオはこの遭遇戦で敗北、自身も重傷を負う。先の敗北でハンニバルには慎重になるように彼は同僚の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスに忠告するが、ロングスは果敢にハンニバルに挑む。しかし同年12月ハンニバルに再び敗れた。 このような敗北にも関わらず、彼はローマ軍の優秀さを信じていた。彼の軍の司令官の任期は延長され、ipo の年に兄カルウスとともにハンニバルの本拠地であるヒスパニアに軍を展開する。この軍事行動が実際どのようなものであったかは分かってはいない。しかしヒスパニアのカルタゴ領を守るハスドルバル・ギスコ率いるイベリア人の部隊に敗れ、スキピオは紀元前211年に戦死、兄カルウスも同年12月カルタゴ・ノヴァ近郊にて戦死した。 ルキウス・コルネリウス・スキピオ(Lucius Cornelius Scipio, 紀元前3世紀、生没年不詳)とは、共和政ローマの指導者。第一次ポエニ戦争で活躍した。スキピオ・アフリカヌスの祖父である。 父はルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス、兄弟にはグナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナがいる。また彼の息子はプブリウス・コルネリウス・スキピオである。 紀元前259年に彼がコンスルとなると、資産運用 海軍を率いて、カルタゴ領のコルシカ島を占拠に成功、しかしサルディニア島のオルビア攻略には失敗した。ローマの公式記録の碑文には彼は凱旋式の栄誉を受けたと伝えられているが、そのような記述は他の碑文では発見されてはいない。次の年、ガイウス・ドゥイリウスとともにケンソルを勤めた。 シュファクス(Syphax、紀元前3世紀頃)は、ヌミディアの西王国マサエシュリの王。シファチェともいう。 シュファクスが即位した当初、ヌミディアはローマと同盟を結んでいたが、第二次ポエニ戦争が始まると、妻のソフォニスバの進言によって株 と手を組んだ。ソフォニスバはカルタゴの将軍ハスドルバルの娘である。 ローマ軍の司令官大スキピオが個人向け国債 に上陸すると、ヌミディア・カルタゴの同盟軍は大敗し、シュファクスは捕虜となった。ローマ軍はヌミディアを制圧し、ローマの後見を得たヌミディア東王国マッシュリの王マシニッサが全ヌミディアの王となった。大スキピオは、捕らえたシュファクスをローマに送り、彼は紀元前203年あるいは紀元前202年にローマで死んだ。 チュニジアの都市スファクス(Sfax)は、彼の名前が由来である。 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌス(ラテン語:Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus, 紀元前185年? - 紀元前129年)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。カルタゴの破壊者である。第二次ポエニ戦争で活躍したスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ、大アフリカヌス)と区別して小スキピオ、小アフリカヌス、スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌスとも称される。なお、以下文中では「アエミリアヌス」と記載する。 ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの息子として誕生。叔母であるアエミリアはスキピオ・アフリカヌスの妻であったのでスキピオ・アフリカヌスは叔父にあたる。その後スキピオ・アフリカヌスの長男の養子となりスキピオ家に入り、以降、名を「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス」とする。 第三次ポエニ戦争時、カルタゴの三重防壁を破るために派遣され、紀元前146年カルタゴを陥落させる。繁栄したカルタゴが滅んで行くさまを当事者として目の当たりにし、炎上するカルタゴを見つめ「ローマもいつか滅びる日が来るのであろうか」とポリビウスに語って嘆いたという。これ以降「アフリカヌス」の称号(アグノーメン)を持つようになった。 ヌマンティア戦争の司令官にも選ばれ、紀元前133年にはヌマンティアを征服し、イベリア半島にローマの支配権を確立した。以降「ヌマンティヌス」の名を持つ。 スキピオ・アフリカヌスの外孫でグラックス兄弟の姉であるコルネリアが妻であり、兄弟とは生来の血縁に加えて義兄弟という立場でもあった。そのような近い関係にあっただけに、アエミリアヌスは父を早くに失った兄弟の若い頃は親密に面倒を見たが、保守勢力の代表たる元老院のプリンケプスとなっていた晩年には、兄弟の改革には反対する立場をとりつづけた。プルタルコスによれば、ティベリウス・グラックスの演説をヌマンディア遠征中で聞いたアエミリアヌスは「このような事を言う者は死ねばいい」と言ったらしい。そのためティベリウスが撲殺された時、民衆の怒りを買い、一族のスキピオ・ナシカのように国外退去されられそうになったという。 紀元前147年及び紀元前134年の2度執政官に選出され、紀元前142年にはケンソル(監察官)を務めた。 紀元前129年に死去。急死したアエミリアヌスの死についてはグラックス兄弟ら改革急進派による暗殺、とする説もある。 晩年の彼は肥満していたという。 ヨーロッパ人の名前「エミリオ」「エミリー」「エミール」「マクシミリアン」などは彼の生家アエミリウス氏族に由来する。 アエミリアヌス死後の共和政ローマ期に活躍した哲学者マルクス・トゥッリウス・キケロは、著書『国家論』De re publica の中で自らの宇宙観を記す際に、「スキピオの夢」と称されるアエミリアヌスを題材とした一節を残した。また、「スキピオの夢」を題材とした作品として、ルネサンス期の画家ラファエロ・サンティが絵画(「騎士の夢」)を製作、18世紀の音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがオペラ「シピオーネ(スキピオ)の夢」(en)を作曲(発表は1772年)した。 ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス(ラテン語:Lucius Cornelius Scipio Asiaticus、紀元前2世紀、生没年不詳)とは、第二次ポエニ戦争後期およびシリア戦争で活躍した共和政ローマの軍司令官、政治家。父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、兄には父と同名のプブリウス?後のスキピオ・アフリカヌス?がおり、一般にスキピオ・アシアティクスと称される。 以下、混乱を避けるため彼を「アシアティクス」、兄を「アフリカヌス」と呼ぶ。 第二次ポエニ戦争後期に兄アフリカヌスとともに参戦、兄弟ともども規定の年齢よりも若かったが、特例でアエディリスに当選するなど、戦間期を通じて若くして元老院を引率する存在にあり、紀元前193年にはプラエトルに選出された。 兄アフリカヌスの才能に隠れがちな弟アシアティクスという印象が強いが、彼自身も有能な司令官で、190年にアフリカヌスの腹心ガイウス・ラエリウスと共に執政官(コンスル)職に当選、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世との戦いで活躍する。そして、兄のアフリカでの活躍で「アフリカヌス」の称号を授かったように、弟である彼もアシア(現在の小アジア)での活躍により「アシアティクス」の称号を授かり、凱旋式の敢行の栄誉を受ける。 しかしながら、彼はスキピオ弾劾の表舞台に立たされる。マルクス・カトー(大カトー)などの反スキピオの元老院議員により、アシアティクスは金銭の横領の咎で告発され、それが兄アフリカヌスの弾劾にまで広がる。そして紀元前183年にアフリカヌスが没するとアシアティクスは投獄されてしまう。最後はティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルの働きかけもあって釈放されるが、横領したとされる金額を返納しなければならなかった。没年は詳しくは分かってはいない。 |